どうも、みーくんです。
本日は終戦記念日ですね。戦争は何も生まないことを念頭に置いた上で、今何不自由ない生活をできていることに感謝をしていきたいものです。
さて、私は来週の19日から復職となり、毎朝の電車通勤が始まろうとしています。私が普段利用している私鉄は、住宅街が林立しているということもあり、お盆のこの時期は親子連れが多くなります。
先日、子どもが電車内で大騒ぎしている現場に遭遇しました。親御さんが注意しても止まることを知らず、静かになる気配は無し。険悪な空気が流れていました。そこで、とある方のツイートを想起しましたので、本日はそれについてお話ししたいと思います。
親のしつけには限界がある
該当ツイートは8/7に投稿されました。以下、掲載します。
電車の中で子どもが大騒ぎ。お母さんは必死に「シーッ!静かにして!」って言ってるのに、子どもは楽しくなっちゃって止まらない。車内には、静かにしろよ、という険悪な空気。それが分かるだけにお母さんは肩身が狭そうに、必死に子どもを静かにさせようとするのだけど、子どもは聞いちゃいない。
— shinshinohara (@ShinShinohara) August 7, 2019
投稿者は「篠原信」さんです。彼は農業研究者として日本の食料問題について調査を進める傍ら、教育関連本も出版していらっしゃいます。
彼の主張内容は、「公共の場で子どもが騒いだ際、親が注意するのが当たり前という風潮になっているが、親のしつけには限界がある」というものです。そこで、赤の他人である私たち大人が「電車内で騒ぐと誰に迷惑がかかるのか」を言葉で説明することで、静かにさせることができるそうです。そのメカニズムとして、彼は「私たち大人は騒ぐ子どもにとっては"背景化"されている」と述べています。そのため、背景から大人が突然現れて注意されることで、その衝撃から打って変わったように静かになってしまうそうです。
所感
人が密集するということは、時には各々が持つ"良識"や"マナー"が衝突することを意味します。しかし、マナーは、個々人の主観を超越した共通原理でない以上、他人に強要することはできません。強要してしまったらそれは"ルール"と同義です。この辺りの定義の話は以前本ブログでも触れさせていただきました。
"親として静かにさせようと注意するべき"というのはあくまでマナーです。彼の行動を見ると、個々人のマナーをルールと履き違え、同調圧力を仕掛ける近頃の風潮に対するアンチテーゼとして成功した一例であるように感じます。
確かに、子どもにとっては周りの人は"背景"そのものであり、揺るぎないものである以上迷惑をかけているという実感が湧きません。ゆえに、背景から突然現れた大人に注意されるという事象は、子どもの捉え方にコペルニクス的転回をもたらすほどの衝撃となるでしょう。そういった意味では合理的であると言えます。しかし、この方法が必ず功を奏すとは限りません。むしろ、現在は誰も注意せず、ひたすら"さっさと静かにさせろよ"という視線による圧力が蔓延しています。
しかしこの圧力は、一部の親御さん自身によって作り出してしまったものです。注意しても「私のパーソナルスペースに入らないで」と言わんばかりに恩を仇で返されるケースが多発しているのです。ゆえに、子どもに注意することで親御さんに余計なお世話だと思われることを避けるために、誰も注意しないのです。一種の自己防衛ですね。特に現代では、"パーソナルスペース"や"プライベート空間"を侵害されることに敏感になっているので、この傾向は強まると考えられます。
とはいえ、子どもが大騒ぎしているのに、全く注意しない親御さんもおり、これも公共の場でプライベート空間を拡張している一例です。他人に迷惑をかけているにも関わらず、正当な理由による注意に対して耳を傾けない親御さんには付ける薬がありません。責任を持って育てる気がないのに、後先考えず産んでしまう親は、"毒親"と切り捨てて然るべきですね。しかし、"暴力"と"しつけ"の境界線が曖昧になっている現在、厳しく叱りつけると虐待行為に抵触する可能性があるので、難しいところです。
親御さんの教育方針や育児環境の変化等、本人の事情が介在する限り、一概に正解はないのかもしれませんが、篠原信さんのような働きかけが受容される世の中になれば良いですね。