どうも、みーくんです。
最近は夏の到来を先取りしたような蒸し暑い日が続いていますね。気候も良く晴れやかな気分になりますが、水分補給はこまめにとりましょう。
さて今回も前回に引き続き、復職を間近に控えた私の「思考世界」から、その一部を外在化させてみたいと思います。
社会適応を目標に定めることに対する疑念
私のような社会というレールからドロップアウトされた人間は「社会不適合者」の烙印を押されたのも同然です。これは社会が求める当たり前、つまり社会の「普通」を満たしていなかったからです。私は周りに迎合することができない「特殊」な人間だったため周囲との人間関係に溝ができてしまいました。正確には、社会向けに自分の振る舞いを変えることができなかったと表現するのが正しいでしょう。人間であれば誰でも芽生えている「自我」を我慢できるかどうかの違いであると思うのです。状況に合わせて、自分の主義主張を自制することが社会で求められる「普通」なのです。
社会の「普通」が変わってくれることはありませんし、周囲の環境を変えることは容易ではありません。したがって、自分を変えていく必要があるのですが、社会の「普通」を目指し改善することに一定の合理性はあるものの、失うものもあると感じています。「普通」ではないからこそ可能になる発想が阻害され、個性が埋没されてしまう気がするのです。皮肉なことに日本の教育は方針が一貫しておらず、おおよそ以下のような特徴があります。
・小学校→個性は認めない
・中学校→個性は認めない
・高校→個性は認めない
・大学→個性的な人かっこいい
・就活→あなたの個性を見せて
・社会人→個性は認めない
右に倣えの精神で、凹凸を平坦化してきた学校教育の弊害が就活の時期に表出し、いざ社会人になると、社会が求める「普通」に適合することが求められます。今の状況を他責にしたくはないですが、少なくともこの矛盾に満ちた風潮にも問題があると考えています。このように概観してみると、就活で個性が求められる理由は、就活生の弱みをあぶり出して、ふるいにかけることにあるとしか思えなくなってしまいますね。この資本主義社会において、すべては「都合の良い労働力」を確保するために教育という名の洗脳をされているのです。
社会に期待できる部分もある
おっと、言い過ぎてしまいました。私の悪い癖ですね。つまり、頑なに「普通」になる必要はないのではないかと思っているのです。この世の中に不満を覚えているのは私だけではありません。
例えば、資本主義社会では、人的コストの削減の一環で、非正規労働者を大量に雇用します。正規労働が「普通」なのだとすれば、非正規労働は「普通ではない」となりますが、一企業に占める非正社員比率を踏まえると、今や非正規労働者が企業を支えていると言っても過言ではないでしょう。「普通ではない」人間でも、企業の一員であることは事実であり、不可欠な人材なのです。しかし現状、賃金格差は拡大しており、内閣府の発表によれば格差を表す指標である「ジニ係数」は高まっています。「普通ではない」人間に対する風当たりは未だに強いです。
私たち発達障害者に対しても同じです。普通ではないにせよ、会社から雇用されています。したがって、個性を生かせるような環境を整備するべきでしょう。今では働き方改革の一環で「ダイバーシティ」を推進している企業も多く存在しますので、発達障害に対する理解も深まると期待したいところです。