どうも、みーくんです。
今年も早いもので残り一ヶ月を切りましたね。気持ちよく締めくくれるように、毎日を充実したものにしていきたいものです。
さて、先月は日産自動車を多額の債務状態からV字回復させた立役者カルロス・ゴーンの逮捕で日本中が沸きました。世界的なカリスマ的経営者が逮捕されたことで、今後の自動車業界の先行きが危ぶまれますが、注目するべきは他にもあります。それは、「日本の司法制度が前近代的なものである」ということと、日本のマスメディアが「社会的事実に基づいた報道をする」という本来の役割を果たせていないことです。
今回は、カルロス・ゴーン逮捕で浮き彫りとなった日本の法制度とマスメディアのAsIsを述べた上で、今後描くべきToBeについて模索していきたいと思います。
日本の法制度は推定無罪の原則が機能していない
検察庁特捜部と日産社員との司法取引によって、カルロス・ゴーン取締役会長が有価証券報告書の虚偽記載をしたことが発覚し、逮捕されました。犯行内容は、2010年度~2014年度の5年分の自らの役員報酬について、毎年約10億円、計約50億円を記載しなかったというものです。罪名は「金融証券取引法違反」になります。
金融証券取引法とは、市場の公正と健全を守り、投資家の保護を図ることを目的としています。有価証券報告書はその趣旨に従い、企業の状況を適切かつ正確に開示することによって、投資家に正しい判断材料を提供しなければなりません。
日本では、カルロス・ゴーンの逮捕で騒がれていますが、実はフランスではそこまで話題になっていないようです。現在、フランスではパリにて道路を黄色いベストを着た人たちで封鎖されるデモが起きていて、そちらの方が大ニュースになっています。今日流れてきた情報ですが、燃料税引き上げに抗議していたようですね。何か既視感がある光景ですが...まぁそれはさておき。
ルノー・日産・三菱アライアンスの一員であるルノーは「推定無罪の原則」に則りカルロス・ゴーンを取締役会長の座を下ろさないとの判断をとったのに対して、日産自動車と三菱自動車は解任する意向を発表しました。これにより、日本の司法制度が機能していない現状が露呈されました。
そもそも、推定無罪の原則とは、「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という近代法の基本原則のことです。何故推定無罪にできるのかというと、有罪を決定づける物的証拠がないからです。これ、原則(=私のブログ上ではルールと同義)である上に、世界的な共通原理だとされています。というのも、『世界人権宣言』と『市民的及び政治的権利に関する国際規約』の中に明記されているからです。
(世界人権宣言:第11条1項、市民的及び政治的権利に関する国際規約:第14条2項)
法制度の存在意義
推定無罪の原則も同様に、法制度は制定されて終わりではなく、機能しなければ意味がありません。というか、機能しているかどうか以前に、法とは本来強制力があるものなので、それに準じていることが当然です。そのため、法から外れた行為をした際には、罰則が定められるべきです。推定無罪の原則違反による罰則は警視庁・検察庁が対象となりますが、問題なのはその罰則が規定されていないことなのです。世界的な「原則」なのにここまで浸透していないところを見ると、日本の現状を案じてしまいますね。
実は日本には推定無罪の原則を無視してしまった結果、有罪が確定していない被疑者を犯人であると決めつけ冤罪となってしまった過去があります。そこでは、取り調べ中に警察官が被疑者を怒鳴りつけて自白を強要することで被疑者の人権を侵害したという訴えを起こしていました。つまり、世界人権宣言第11条1項に違反したということですね。何故、このような事態が発覚したかというと、被疑者がポケットにICレコーダを忍ばせていたからのようです。その後、法が改正され、2019年まで殺人等の重大事件では取り調べでの録音・録画を義務づけることになりました。重大事件だけに限定せず、すべての取り調べで警察官にICレコーダを所持させろよ、とツッコミを入れたいところですが、まぁそれは本題から外れてしまうので置いておきましょう。
何故日本は過去の冤罪から何も学ばず、推定無罪の原則を違反し続けるのかが疑問でしかありません。様々な憶測が飛び交う中、三菱自動車の益子修CEO(Chief Executive Officer,最高経営責任者)によると、「カルロス・ゴーンを解任しなければ三菱自動車をレピュテーションリスクに晒すことになるから」が理由らしいです。要はグローバルな基本原則よりも自社の評判を優先しているということですね。これって、むしろグローバルな視点で考えれば、基本原則も遵守できない会社だとして世界的なレピュテーションリスクに晒されることにならないでしょうか。彼の思考はあまりに短絡的に思えてきますね。
マスメディアの存在意義
私が危惧しているのは法制度だけではありません。マスメディアも同じです。マスメディアとは本来、「正確かつ社会的事実に基づいた報道をすること」が求められます。世論を形作るという重要な責任を担っているわけですから当然です。しかし、日本のマスメディアは検察側からのリーク情報を元に記事を公開するものの、詳細な出元が判別されていないので、信憑性が保障されていないことが多いです。それは言葉尻を確認してみれば明らかで、多くの新聞等では「...らしい」で終わっています。これは真実は分からないが記事にするという日本のマスメディア文化が色濃く反映されています。
この、事実関係が明確ではないという弱みが裏目に出た過去もあります。とある事件で、有罪判決が出ていないにも関わらず、被疑者の個人情報を事細かに公開してしまったというものです。これは「メディアパニッシュメント」と揶揄されますが、一度報道されると被疑者の名誉回復は困難になります。実はマスメディアにも推定無罪の原則による罰則の規定事項が見当たらないのです。
今回のマスメディアは、カルロス・ゴーンを有罪であると決めつけたことで、「役員報酬を過少申告し、脱税した男」「日産を私物化した男」という世論が形成されるに至りました。ところが本件も、のちに事態が揺るぎかねない事実が判明されたのです。というのも、虚偽記載とされたのは「実際に受領した報酬」ではなく、「退任後に別の名目で支払うことを約束した金額」であることが分かったのです。金融証券取引法違反は有価証券報告書の重要事項に虚偽の記載をした場合に成立します。退任後に「支払いの約束」をした役員報酬は、記載義務があるかどうかがグレーゾーンなのです。しかし、メディアはすでに歪んだ世論を形成してしまいました。どう落とし前をつけるつもりなんでしょうか。
更に、日本のマスメディアは日本経済新聞社に代表されるように、カルロス・ゴーンを「成功者」だと持ち上げた後に、今回の一件で引きずり下ろすという掌返しをしています。これはマスメディアだけではなく、日本社会全体の風潮でもあるのですが、日本人は掌返しが得意な民族です。本質が見抜けていないのでしょうね。このように掌返しをしてしまう原因としては、長いものに巻かれる精神があるからなのでしょう。成功者だけに巻かれ、失敗者からは距離をとってしまうのです。
今回のカルロス・ゴーン逮捕は金融証券取引法違反ばかりに目移りしてしまいますが、少しは推定無罪の原則違反に目を向けてみてはいかがでしょうか。