どうも、通所を始めて以来初となる4日連続のリワークから解き放たれ、悦に浸っているみーくんです。
こうしてブログ更新ができているということは...そうです、私にも「勤労感謝の日」を享受することができたんです。
リワークに通って、勤労していない(=現代社会に何も貢献していない)身でありながら勤労を感謝されるって高度な皮肉ですよね。
また、今日は勤労感謝の日のみならず、いい日産(1123)の日ということらしいんですが、カルロス・ゴーンが有価証券報告書の虚偽記載で逮捕されたというビッグニュースの直後だというタイミングもあり、とても祝えるムードではないですね。
日産をV字回復させた代表取締役会長が辞任したという凄惨な痛手を背負いつつも、利潤追求のため懸命に労働力を提供していた日産の社員様こそ、盛大に勤労を感謝されるべきであろうと思います。さて、前置きはこのくらいにして、今日はリワークで定期的に行われる「会議」について、物申したいことがあるので、この場を借りて綴らせていただきます。
会議は目的によって意味合いが変化する
日本人は会議好きであるとよく言われます。私が休職する前に勤めていた会社では、営業という職種も相まって、会議に割く時間が非常に多い部署でした。しかし最近では、議論の時間が無駄に長い会議が問題視され、時間を有効に活用しようとする動きも活発化しています。
そんな会議ですが、その目的が「相手を論破すること」であると誤解している人が多いということに気が付きました。より正確に申し上げるならば、「協議」の場において、相手を屈服させようとする輩が目立ってきているということです。
この問題を考えるにはまず、会議の種類とその目的について精査する必要があります。SEの方々であれば馴染み深いオブジェクト指向で表現させていただくと、「会議」はその目的によって「協議」と「討議」に大別され、「会議」と「協議・討議」は「汎化」-「特化」の関係になります。(と、思っています。)
私の主観的な解釈に頼るのは心配なので、念のためそれぞれの定義を調査してみましょう。
会議:
英訳すると「meeting」。関係者が集まって特定の案件について相談し、意思決定すること。あらかじめ決められた議題に基づいて進行する。提案、質疑応答、議論を経て最後に議決される。
協議:
英訳すると「Discussion」。関係者が力を合わせて相談し、意思決定すること。あらかじめ決められた議題に基づいて進行する。議論を経て最後に多数決を元に結論が出される。
討議:
英訳すると「Debate」。関係者が自由に意見を出し合い、意思決定すること。あらかじめ決められた議題に基づいて進行する。議論を経るが、必ずしも結論が出されるとは限らない。
いずれも意味合いは「意思決定すること」になりますね。但し、協議と討議については明確な違いが認められます。協議は関係者の「協力」が前提であるのに対し、討議は自由に発言することができます。そのため、協議では日本人お得意の「忖度」が必要になるケースもありますが、討議では相手がどう受け取るかについては問題とせず、自由に主張することができます。したがって、協議は調和的であり、討議は攻撃的であるとも言えます。また、協議では多数決の原則を根本に据えているのに対し、討議は必ずしも多数決であるとは限りません。
私がリワークで参加している会議は「協議」の側面が強いのですが、参加者の口から誇らしげに「論破してやった」という言葉が出てくるのを気がかりに思っていました。先ほど掲げた定義に照らし合わせてみれば、彼は「協議」を「討議」であると誤解していたということですね。
協議の問題点
「協議」と「討議」によって目的が異なれば、当然求められるスキルも異なります。討議では、忌憚なく意見を出すことができるため、「論破力」が必要ですが、協議で求められるのは「相手に納得してもらう力」です。相手を納得させるのであれば、論破力と同じく「論理的な正しさ」が必要になってくるという点では求められるスキルが似通っていますが、「感情に働きかけて相手の共感を得る」ための力も包含されるという点では異なります。
協議において何故相手に納得してもらわないといけないのか、それは協議では結論が多数決で議決されるものであるからです。そのため、議論中にマジョリティとマイノリティで意見が分かれたとしても、マイノリティをマジョリティの主張に寄せていかなければなりません。悲しいかな、現在の民主主義社会ではマジョリティの意見が民意として反映されてしまうのです。
もちろん、お互いが妥協点を探りあって、落としどころを見い出せれば良いのですが、それって理想論でしかありませんよね。例えば、「風邪予防のために朝ヨーグルトを食べることは効果的だ」という立場をとるAグループをマジョリティとし、「それは効果的ではない」という立場をとるBグループをマイノリティとしましょう。この場合だと、お互い妥協点を探るのは困難です。お互い平行線のままであり、決して二重線が交わることはありません。
しかし、多数決制での決定事項はその内容の正しさが保障されるものではありません。客観的なデータに基づいた事実と照らし合わせてみたときにBグループが正しかったということも十二分にあり得る話です。このように、マジョリティで決められた結論こそが正しいと思い込んでいることが危険なのです。
こう考えると、協議とは個人の主観で話し合うのではなくて、参加者全員で客観的な事実をWeb等で調べ上げて、それらを纏めた方が理にかなっているといえます。
多数決で決定された結論を正しいと錯覚しているマジョリティは、自分たちで生み出した総意が「正解」であると誤解しています。しかし、よく考えてみてください。
客観的な事実として正解があるとするなら、議論なんてする必要ありますか?
正解を出すために議論するのではなく、正解がないから議論するんですよ。では、先ほど私が勧めた「客観的な事実を調べ上げて、それらを纏める」という方法で得られた結論は正解ではなく何なのかと疑問に持つ方もいらっしゃるでしょう。そんな方々にお答えします。
客観的な事実をかき集めて、未解決の問題に対して結論が出せたとするなら、それは「正解」とは言いません。「最適解」です。
したがって、ある社会的組織・グループの話し合いで決まった最適解に絶対的な確実性を求めてはいけないのです。