みーくんの思考世界

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秀才とバカは相容れないか

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どうも、みーくんです。

私は現在リワークに通って5週目になるのですが、とある会話を又聞きしていて、ふと「この二人の会話、噛み合ってないな」という思いがよぎったシーンがありました。

第一印象は「前提となる認識が異なっているんだろ~な」くらいのものでしたが、私の脳内回路では、以下の俗説が展開されていました。

 

IQが20違うと会話が成立しない

 

今回はそんなIQについて、その定義や私の所感、関連したツイートで炎上したものまで述べていきたいと思います。

 

そもそもIQとは何か

ここでは、IQの定義について確認していきたいと思います。IQはIntelligence Quotientの略称で、「知能比率」と直訳されます。つまり、ある集団でテストを実施した際、個人の記憶力・論理力・推論力がIQ100を基準とした正規分布のどこに当てはまるかを測定した結果です。ここで、誤解してほしくないのですが、IQは「知能」とは異なります。知能は記憶力・論理力・推論力の他に判断力等を含めた広義のものを表します。そのため、私は意図的に「記憶力」・「論理力」・「推論力」の3つに分けてIQの説明をしました。つまり、IQテストでは判断力を測ることができないというのが重要なポイントです。全般的知能を網羅的に測ることは現状できないようですよ。

IQテストによって図示されるグラフが正規曲線を描くことになる限り、統計学的には皆さんお馴染みの「学力偏差値」と変わりません。

実は、歴代の天才と呼ばれてきた偉人たちはIQが高いものの、「判断力」が常人の理解範囲を逸脱しており、そのために非難を浴びてきたケースが多いです。スティーブ・ジョブズが好例ですね。

分かりやすい例を挙げると、車として良いエンジンを積んでいるものの、ハンドル操作が常人の判断力と明らかに異なっているということになります。

先ほど「判断力」を含めた総合的な知能を測るテストを開発できないと申し上げましたが、それには私も同意しています。そもそも判断力を測るとするならば、従来の常識と照らし合わせて、該当する行動がその常識にその程度適合しているかを確認することになります。常識が時代の変化と共に移ろうものである限り、包括的に判断力を測れるテストを開発することはできません。仮にできたとしても、時代と共に改訂を重ねることになります。つまり、判断力は個々人の主観的解釈によって差異があるため、それらをひとつの正解に集約させることはできません

ハーバード大学の心理学者デヴィッド・パーキンスは以下の持論を展開しています。

 

私たちの精神はサーチライトのようなものだ。IQはサーチライトの明るさを測定する。しかし問題は、サーチライトでどこを照らすかということなのだ。

 

つまり、IQは持っていることに越したことはないが、判断力に左右される場合が多いということですね。

 

では、会話が成立しない件についてはどう解釈すれば良いか

ここでは、冒頭の「IQの差異が会話成立に影響を及ぼす」という俗説について、事実と所感に分けて説明していきたいと思います。

 

<<事実>>

この俗説は1987年に高IQ団体「プロメテウス教会」会員のGrady M. Towersが書いた記事に端を発します。以下が該当記事です。

 

http://prometheussociety.org/wp/articles/the-outsiders/

 

そこでは、整然と以下の文章が綴られていますね。

 

The implication is that there is a limit beyond which genuine communication between different levels of intelligence becomes impossible.

To say that a child or an adult is intellectually isolated from his contemporaries is to say that everyone in his environment has an IQ at least 30 points different from his own.

 

つまり、IQが最低でも30以上異なっていた場合、コミュニケーションが成立しないと断言しています。日本は20ですが、アメリカでは30なんですね。

ところが、彼の持論には幾ばくか脆弱性が見られます。というのも、彼はリーダの知性とその被指導者との関係性を「子供のみ」を対象にし「観察」した結果、IQが30違うとコミュニケーションが成立しないという持論を展開してます。これって、対象が限定されている上に科学的に実証された事実ではないですよね。

したがって、「IQが違うと会話が成立しない」という俗説のソース自体に信憑性がないということになります。

また、そもそもIQとはテスト対象の母集団によって表れる結果に変動があります。そのため、一概に「高IQを持つ者」と「低IQを持つ者」を比較することはできません

 

<<所感>>

IQ(記憶力・論理力・推論力)が優秀なAさんとIQが劣っているBさんがいたとします。また、彼らの判断力は同一のものであると仮定します。

そこで、店の商品棚を想像してみてください。品揃えが良い商品棚Aと品揃えが悪い商品棚Bがあります。客観的に考えれば、顧客が求める商品が品揃えが良い商品棚Aにある確率は高くなります。しかし、結果として商品棚Aにも商品棚Bにも商品があったらどうでしょうか。顧客の目的はどちらの商品棚でも達成できるわけなので、どちらの商品棚も同じ価値となります。

これと同じで、AさんとBさんのキャパシティが異なっていても、判断によって導き出された結果が一緒なのであれば、AさんとBさんで差異は見られず、話が合わないことはないと思われます

しかし、これは結果論であり過程論ではありません。結果を導き出すプロセスにおいて、Bさんにはない考え方をAさんが持っていることになりますので、そういった意味では話が合わないこともあるのではないかと思われます。

つまり、プロセスとその前提知識が異なるため、場合によっては話が噛み合わないこともあるというのが結論です。

 

炎上した元電通社員のツイート

IQに関連した内容で元電通社員が投稿したツイートが炎上したこともありました。日時は2017年1月30日で、もうすぐで2年が経過してしまうものですが、該当ツイートを以下掲載します。

 

 

これ、ただでさえ社員が過労自殺した後というタイミングもあるのに、それをものともしない態度に度胸を感じました。さすがは日本のエリート企業ですよね。

話を戻しましょう。ここでは、私の所感のみとさせていただきます。

 

<<所感>>

まず統計学的観点で考えると、学力偏差値はIQである(厳密には、IQの手法として偏差値法を用いている)とも言えるのは前述した通りです。ここで、会話が成立しない件と異なるのは論点が「会話」ではなく「理解」ということです。IQが記憶力・論理力・推論力を表すものである限り、電通社員で理解できることが、学力偏差値が低い庶民に理解できないというパターンは当然あり得ます。つまり、思考を働かせないCMを製作する必要性に迫られるということですね。

しかし、電通社員の定義する「バカ」の範囲が明確でない限り、議論ができません。仮に、彼女が挙げている「学力偏差値40」をバカとするのであれば、その考え方は間違っていることにもなります。何故なら、学力偏差値は「50」が基準であり、客観的なデータに裏打ちされた「普通」だからです。

また、電通社員全員が高IQであるとも限りません。つまり、理論が一般化されているため、幾ばくか脆弱性を感じる持論ではないかと思われます。

つまり、「電通社員全員が高IQである」と仮定するなら、「CMは学力偏差値40の人に理解できるものじゃなきゃダメ」という持論は正しくなります。しかし、彼女の言う「普通」は間違いです。

屁理屈に感じましたか?しかし、屁理屈も理屈なので、事実の一つなんですよ。