みーくんの思考世界

自身の経験から転職活動の実態を綴るブログです。必要な情報を必要とするユーザに過不足なく提供できるコンテンツを目指しています。

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常識を誤用し、常識に安心している現代人

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どうも、世の中がポッキーの日で浮かれている中、存在感を薄くして独り「湖池屋のり塩ポテトチップス」を嗜もうと画策しているみーくんです。決して湖池屋のステマではないので、悪しからず。

さて、今までの私のブログタイトルを見直してみると、哲学的な観点で自らの思考をつらつらと羅列しているだけで、明日の風景が一瞬で変化するような実践的内容が少ないな~と感じている所存でございます。まぁブログネームが「思考世界」なので自分の考えで帰結してしまうのは仕方ないとは思っているのですが。仮にもこのブログは「思考の掃除と真理の探究」にテーマを据えているので、今後も温度感といいますか、どこか湿気を感じる論調は変わらないと思っていただけると幸いです。

そうです、つまり今日のネタも考え始めると泥沼に嵌ってしまう代物を用意してきました。独断と偏見で。。。

 

常識の誤用

このネタを持ってこようとしたきっかけは以下のツイートによるものです。

 

これ、私のブログを読んでくださっている方(=私の主観的解釈に洗脳されている方)なら、私の脳内回路を一発で当てることができると思います。これ、つまりはマナー議論と遜色ないんですよ。言葉は違えど、アプローチの仕方は同じです。

需要があるかはさておき、以前私が書いたマナーについての記事を参考までに以下掲載します。

 

www.miyqun.site

 

社会では腐るほど聞かされている「常識」という言葉。これ、人類普遍の共通原理だと勘違いしている方いらっしゃいませんか?

 

「これ常識だから。何でそんなことも分からないの?」

 

いや、あなたが仰る「常識」ってどこの誰が定めたものなんですか?あなたが仰る「常識」はどこまでの範囲内のものなんですか?

新しい言葉を覚えたてのイキった小学生を彷彿とさせる言い方になってしまいましたが、私が主張したいことはただ一つです。

 

あなた、「常識」を誤用してますよ。

 

かの有名なアルベルト・アインシュタインは「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」と述べられていますね。

私もどちらかというと、彼のアプローチの仕方に同意です。常識って本来強制力がないものなんですよ。それを強制しちゃってるのが問題なんですよね。

なぜか?常識は「法」を根拠元とせず、明文化されたものではないからです。つまり、常識ってマナーと一緒なんですよ。個々人の主観、ひいてはマジョリティの主観によって解釈されたものに過ぎないんです。これを「共通原理」などと勘違いを起こしてしまうようだと、危険ですよ。

まぁそれでも「常識は人類普遍の共通原理だ!異論は認めない!」と主張する方がいると想定しましょう。(むしろ、今の時代この考え方をする人の方が稀ですが、それはさておき。)

アメリカに赴いて、日本人お得意の謝罪の言葉「すみません」を連発してみてください。周りから怪訝な表情で見られますよ。「すぐに謝ることこそが美徳」という歪んだ「常識」が一瞬で崩れ去るでしょう。

今更こんなことも言いたくないですが、常識とは「共同体によって生成された偏見の堆積物」です。ひとつの共同体があるとすれば、そこに「文化」「宗教」「価値観」が生まれます。そのため、カルチャーショックが発生するのは当然の帰結です。

当然のことを誇らしげに述べましたが、ここで質問を投げかけたいと思います。

 

「国」という粒度では文化の差異から常識が異なると分かっているのに、なぜその常識を「個人」という単位にも当てはめる柔軟な思考ができないんですか?

 

先ほどの話をぶり返すようですが、常識はマジョリティの主観的解釈による生成物です。そのマジョリティは「個人」という単位で構成されるものであるため、個人の常識とも言えますよね。

では、マジョリティの中の「個人」とマイノリティの中の「個人」との間に発生する認識(=常識)は看過できるのでしょうか。

このようなアプローチで考えられない人は、残念ながら「常識」の押し付けをしてしまうのでしょう。

では、常識はどのように捉えられるべきなのでしょうか。日本常識力検定協会が提唱している常識の考え方が非常に興味深かったので紹介します。

当協会では、常識を3つの要素に分解して捉えています。

 

①知識

社会を自立的にたくましく生きるための基本的要件である「読み・書き・そろばん」と「衣食住」の対応行動。

②良識

倫理・道徳観に根ざした人間性。これは、いつでもどこでも通用する人類普遍の原理とも言えるもの。

③見識

文化に根ざした安定した行動様式、すなわち礼儀・作法・エチケット・言葉遣い・しぐさ。これは社会を美しく生きるためのセンス。

 

つまり、「現代社会で一般的に認知されている常識」は「見識」を指している場合が多く、「本来の常識」の必要条件であり、十分条件ではないということなんです。見識を押し付けていたということになりますね。

更に付け加えるのであれば、「見識を良識であると勘違いしている」ということにもなります。

見識の拡大解釈。。。こう考えてみると盛大にやらかしちゃってますね。

 

常識を疑わないと、断続的な成長はあれど、画期的な進歩は見込めない

現代の人類普遍の原理といえばなんでしょう。例えば、「地動説」がありますね。もはや「説」ではなく断定しちゃっても良い気もしますが、それはさておき、これって当時までは誰もが信じて疑わなかった「天動説」を根本から打ち崩すように提唱されたアンチテーゼですよね。コペルニクス的転回という言葉も生まれました。

提唱者のニコラス・コペルニクスはどうなったか。当時の天動説支持者たち、つまりはマジョリティから批判を浴び追放されましたよね。いつの時代もそうです。人ってそれまでの常識を疑われると恐怖をもつ生命体なんですよ。

人に支持される主張って、大人数から擁護されるわけですから、社会全体として相互依存的に成長していくのでしょうけど、画期的な進歩は何一つ生まれません。

ここでは画期的な進歩を「イノベーション」と呼ぶことにしますが、これは常識を疑うという姿勢がないと始まりません

周囲から「常識外れだ」と非難される狂人、しかし狂人がひとたびイノベーションを巻き起こすと、掌を返したように「偉人」だと評価され、最終的には「そのイノベーションが常識」となる。皮肉にも、それが事実です。

最後に私の持論で締めくくります。

 

常識に囚われる一般人は「秀才」になり、常識を知らない狂人は「天才」となる