皆さん、久方ぶりです。
贔屓チームの福岡ソフトバンクホークスがリーグ2位からの下克上を成し遂げて、未だ興奮冷めやらぬみーくんです。
この余韻に身を委ねながら、ホークスの勝因についてでも語っていきたいところですが、今日は私が日頃利用しているSNSについて思うところがあったので、それについて綴っていければと思います。
SNSの存在意義
ここではSNSの中でも「Twitter」に焦点を当てて、意見を垂れ流していきたいと思います。
インターネット、特にSNSが急激に発達した昨今、もはや日常生活には欠かせない必需品とまでなっています。ところが、公に開放されたツールということも相まって、無法地帯さながらに歯止めが効かない状態ともなっており、トラブルも相次いでいます。
「そもそもなぜ、トラブルに巻き込まれてしまうのか」という観点で持論を述べていきたいと思います。
結論から申し上げますと、「SNSには公式で定められた存在意義が確立されていない」点にあると考えられます。ここではTwitterを一例として取り上げますが、Twitterは各人が定めた存在意義に則って利用しています。換言すれば、「TwitterというIT基盤を提供するから後は必要ならば自分でカスタマイズしてね~」という状態です。したがって利用方法に応用が効くということですね。
ここでの「カスタマイズ」とは例えば、「Twitterを自己顕示欲を満たすために活用する」ことが挙げられます。昨今のTwitterユーザを見ていると、特にこの傾向が多く見受けられます。仮に、この自己顕示欲を満たすことを目的にしている人をAさんとしましょう。Aさんは、彼/彼女がどの程度意識しているかは別として、自分なりの存在意義に則ってTwitterを利用しています。ところが、Aさんが意図していなかった事象が発生してしまいます。
例えば、Aさんは他人に自分の容姿を認められたいという目的を達成するために「顔写真」をタイムライン上に載せたとしましょう。そこで誹謗中傷リプライが来る可能性があるわけです。というのも、「情報収集」をTwitterの存在意義であると考えているBさんがいたとすると、Aさんの顔写真は個人的かつ不要な情報であり、ストレスとなるからです。このように昨今話題になっている「SNS疲れ」は各人が定めたSNSの存在意義の相違によるものが大きいと考えています。
これらのストレスを回避するためには、必然的に「鍵垢対応にする」等の対策が検討されます。そうすることで、閉鎖的ではありますが、見知らぬ他者から干渉されない二次的な空間が構築されることになります。とはいえ、これさえもできていない利用者がいることも事実です。
例示したAさんに議論を戻しますと、彼/彼女は「より多く、他者に認めてもらいたい」という欲だけが先行しており、自身の発信内容に責任を持っていないパターンが散見されます。
鍵垢を外して発信することは、公共交通機関に足を踏み入れることと同義です。本人は意図的でなかったとしても他人に不快な思いをさせてしまう恐れもありうるのです。
氾濫した情報の中で本質を見抜く力
現代日本では言論の自由が保障されているため、昨今のSNS上では社会問題について活発な議論が交わされることも多くなりました。
そこでは当然フォロワー数が多いアカウントが影響力をもつようになります。皮肉なことに、同じ質・同じ内容をフォロワー数1万のAさんとフォロワー数100のBさんが呟いていたとしても、Aさんのリツイート数が多くなるのが常です。つまり、フォロワー数の少ないユーザがいかに有益な意見を呟いたとしても、そもそも他者に見てもらえる機会はほぼありません。
ここでの問題は何かと言いますと、フォロワー数の少ないBさんが正論を展開していたとしても、趣旨の逸脱したAさんの意見の方が正しいと錯覚してしまうことがあるのです。そして、流入してきたAさんのツイートを自分もリツイートすることで、自分がマジョリティであることに満足します。
これは日本人に特に顕著であり、「長い物には巻かれよ」精神が色濃く出たものではないかと考えられます。真偽が曖昧模糊な情報の中で本質を見抜く力が不足しているのではないでしょうか。