一昨日、昨日と引き続き、ブログ更新が滞ってしまい申し訳ない。リワーク活動の通所スパンが増え、かつ死闘とも言うべき日本シリーズに没頭してしまったため、怠慢とも受け取れかねない事態となってしまった。
今回は一昨日、昨日のリワーク中に、合間を縫って読み進め、無事読了した『嫌われる勇気』から人生という旅を豊かにするべく思想、名言を習得したため、今更ながら公開していきたいと思う。
とはいえ、『嫌われる勇気』は大ベストセラーであり、ドラマ化もされたアドラーブームの牽引役である。本ブログを読者の中にも、すでにご存知の方がいるかもしれない。そのような方は、アドラー心理学の再確認という意味で本ブログを読んでいただければ幸いだ。
アドラー心理学とは
『嫌われる勇気』が刊行されるまでは、アドラー心理学は脚光を浴びていなかった。それまでは、心理学はフロイトの無意識論、ユングのタイプ論に代表される言論が一般的であった。しかし、本著が刊行されてからは、アドラー心理学をより実践的に応用しようとする人も増え、一種のアドラーブームが巻き起こった。
彼の持論は「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」という考えに端を発する。そのため、アドラー心理学は組織論でも社会論でもない、「人間関係」を主眼としているということに注意せねばならない。そのため、彼の目標はあくまで「社会と調和して過ごすこと」であり、その延長線上にある効果については言及されていない。つまり、会社組織の利潤追求や、経済成長は念頭に置いていないということである。
さて、アドラー心理学と対比して持ち上げられるのが、フロイトである。フロイトは「すべての事象は因果律で成り立っている」という主張を展開するが、アドラーはすべてのトラウマを否定する。フロイトの「原因論」に対して、アドラー心理学は「目的論」的思考をとる。
たとえば、毎日引きこもっている成人男性がいるとする。彼は「過去に学校でいじめられたから、人が信用できなくなり引きこもっている」と主張している。これは紛れもなく原因論的な考えであり、「彼はトラウマがあるため引きこもっている」との解釈をする。しかし、アドラー心理学では以下のような解釈をする。
"彼が引きこもっているのはトラウマがあるからではない。彼は、外出して他人から批判・誹謗中傷されるのを避けるという「目的」を達成するために、「手段」として引きこもっている。"
また、仮に「彼はブサイクであるから、外出するのが怖くて引きこもっている」と想定しよう。彼は短所にばかり目がいってしまうため、外出することができない。
ところが、アドラーは次のように解釈する。
"彼は自分の短所があるから外出できないと弁明しているが、それは違う。彼は「他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを避ける」という「目的」を達成するために、「手段」として引きこもっている。また、こうすることで、「もしもブサイクじゃなかったら俺だって人並みの生活を送ることができる」という可能性の中に生きることができる。"
このように自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを、アドラーは「劣等コンプレックス」と呼んでいる。劣等感は他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」と比較して生まれるべきものであるという主張を展開した。
つまり、歪んだ劣等感は、「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」で生まれるのである。
アドラーの設定している対人関係の目標は先述した通り「社会と調和して過ごすこと」である。彼はこれを「共同体感覚」という言葉で表現している。そのために必要なものとして以下の要素を挙げている。
①自己受容
②他者信頼
③他者貢献
①は「自己肯定」とは異なる。自己肯定は自分の長所ばかりに目を向けてその価値を認めるが、「自己受容」は自分の長所も短所も、ありのままの自分として受け入れることである。自分の不足している点を見つめ直し、対策を施すことまでも包含している。
②は「他者信用」とは異なる。信用とは、条件付きで担保しておくことにより、相手を認めるという心理作用のことである。対して、「信頼」とは無条件に、相手のことを信用することである。
③は、自分を犠牲にして誰かに尽くすことではなく、自分の価値を実感するためにこそ、なされるものであるという主張を展開した。
アドラーは人間関係の目標を「共同体感覚」としたが、人生における目標は定めていない。というより、定めること自体不可能であると考えている。曰く、「人生とは連続した刹那」であり、人生の意味は個々人が自分に対して与えるものであるからだ。
アドラー心理学の弱点
アドラー心理学は、その特性上「個人心理学」とも言われているが、目標が人間関係の維持(=共同体感覚)であり、その先にある効果については何も触れられていない。特に客観的な事実・評価がまかり通っている現代社会はまさしく資本主義社会そのものであるが、それを看過した考えだということが極めて危険である。つまり、経済学・社会学的言説とは相反することになる。アドラーはすべての人間関係を「縦」で見るのではなく、「横」で見る、すなわち「対等」に考えることの重要性を説いているが、それを現代社会で応用して得られる対価は一握りだろう。まぁ、私が「対価」という言葉を用いている時点で、アドラー心理学の考え「見返りを求めず、無条件に他者を信頼する」に反することになるのだが、対等に捉えるという考え方は競争原理をないがしろにしている。本著の裏面を見てほしい。皮肉なことに「定価〇〇円」と表示されている。市場価値に異を唱える言説を記載した本に定価を表示しているのは、何たるパラドックスであろう。
経済成長は市場競争によってのみもたらされる。繰り返しにはなるが、アドラー心理学は対人関係のみ効果を発揮し、個々人の「主張」より「事実」を根拠に評価される現代では一切合切通用しない。アドラー心理学とは、事実が変わるのはなく、考えのクセを変えるための心理学である。
また、彼の心理学は「客観」ではなく、「主観」に立脚した論理構成となっている。当然、客観的な評価に晒され生きてきた人からすると、とっつきにくい内容となるだろう。また、この手の思想本は、読んで理解しても実践するのは困難を極める。本著にも「アドラー心理学を十全に実践できるようになるまでは10年以上はかかる」との記載があった。
更に、彼は人間の基本欲求を階層的に表現した「マズローの5大欲求」の一要素である「承認の欲求」を明確に否定している。他者の期待を満たすと最終的には他者の人生を生きることになるというのが彼の持論だが、たとえば組織社会は、一個人で回っているのではない。そこでは、クロスチェック等を経て承認作業を終えることによって成果物として完成する。これは「欲求」の問題ではなく「事実」の話である。あくまでアドラーは人間関係においてのみ論理が成立するということに注意せねばならない。
アドラーの主張小出し
全300ページ弱ある本著、当然本ブログで触れられていない言説も溢れんばかりあるため、まずは代表的なものを掲載していきたい。(一部改変、簡略化している)
"あなたが不幸なのは「不幸であること」があなたにとっての「善」だと判断したから"
"人は色々と不満はあったとしても、現状のライフスタイル(=性格)でいることの方が楽であり、安心"
"われわれは「これは誰の課題なのか」という視点から自分の課題と他者の課題を分離していく必要がある"
"課題を分離することは自己中心的になることではなく、むしろ他者の課題に介入することこそ自己中心的な発想"
"自由とは他者から嫌われることである。尚、嫌われることを怖れるなという意味で、わざわざ嫌われるような生き方をしろという意味ではない。"