「公共」に潜む規則はどのように策定されるべきか
私は、公共交通機関で頻繁に電車を利用している。しかし、最近になって目にするのが「車内で大声で話す乗客」や「車内で化粧をする女性客」である。
彼らの行為は当然他の乗客からすれば「不快」として感じ取られる。私は、他者に迷惑をかけていることをものともせず、自身の行為を顧みない彼らのような人間を「プライベート空間を拡張させている人間」と表現している。
つまり、自宅でのプライベート空間・時間でやるべきことを、公共機関に持ち込んでいるということである。
現状、「痴漢行為」は日常的にニュースで持ち上げられており、れっきとした犯罪として厳格に取り締まられている。しかし、冒頭で挙げた乗客はいわゆる「グレーゾーン」に所在している。彼らに向けた規則・罰則を適用する場合、まずは該当行為が白か黒かを明確にさせなければならない。
公共ルールとは、社会の基本原理・共通原理であり、一国民である限りそれを遵守しなければならない。したがって、個々人の常識・主張は通用しない。そこがポイントである。
グレーゾーンの行為をどのような扱いにするのかについて、その論拠をどこにするのか、多くの主張が跳梁跋扈する中で、何を正しいとするのかが難しくなってくる。
一方にとっての主義は、他方の主義と反することがある。
一方の言論・主張は、時に他方への凶器になることがある。
一方にとっての常識は、他方にとって非常識になることもありうる。
そんな中で、全員が納得できる基本原理・共通原理を策定することができるのだろうか。
暴走する路面電車
私は、大学時代以下の文庫本を愛読したことがある。
著者はハーバード大学で政治哲学を専門に教鞭を執っている「マイケル・サンデル」である。
本書の特徴として、「正義とは何か」との問題提起を行うことによって読者に思考機会を提供するというスタンスをとっている。したがって、「正義」に対する根本的な答えは書かれていない。
そんな本書で以下のような例題が掲載されている。(文章を一部改変・簡略化している。)
①"あなたは電車の車掌で、今運転中である。前を見ると5人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするがブレーキが効かない。ふと、右側へと逸れる待避線が目に入る。そこには1人だけ作業員がいる。電車を待避線に向ければ1人の作業員は死ぬが、5人の作業員は助かることに気づく。どちらを選択するべきだろうか。"
②"今度はあなたが車掌ではなく、傍観者で線路を見下ろす橋の上に立っている。今回は待避線はない。線路上を路面電車が走ってきており、その前方には5人の作業員がいる。そのとき、隣にとても太った男がいるのに気がつく。この男を突き落とせば、5人の作業員が助かるものとする。どちらを選択するべきだろうか。"
①では死者の数が重要だとして待避線に向けると答える人が多いだろう。では②はどうか。突き落としたくないと思われる回答者も多いのではないだろうか。
ではなぜ、数が重要であるならば、①の原理を②に当てはめ、太った男を突き落とさないのだろうか。これを「道徳的ジレンマ」と呼ぶ。
一方では、数の重要性で多くの命を救うべしという主張があれば、他方では無実の人を殺すのは間違いだと主張する。どちらの主張が正しいのだろうか。
これらを解決できれば、「普遍的な共通原理」として公共ルールも策定されうるのであろうが、結局のところ、全員の「正義」を一本に収束させることは難しい。
この考えは、イギリスの哲学者ベンサム(Jeremy Bentham)が提唱した「功利主義」に代表される。
彼の功利主義は、「少数派の犠牲があっても多数派の主張を反映させるべきである」という考え方が根本にある。
したがって、現状は「多人数制によって公共ルールを決めるべきである」というのが結論となる。どうも後味が悪いが、正義についての議論は今後の人生哲学において永遠のテーマとなりそうだ。