ふとしたことから、私は「天才」とは何かについて思索に耽っていた。一般的に天才とは「Gifted」と英訳され、「天賦の才能」を意味する。したがって、その意味合いは先天的なものである。
そもそもなぜ「天才」という言葉が生まれたのだろうか。今回はその問いと共に始めていきたい。
狂人は何かを生み出す可能性がある
よく「天才と狂人は紙一重」という言葉を聞く。これは、一般人では到底思いつかないような不可解な思考・行動をするからであり、そういう意味で天才と狂人に共通点があるからであろう。
これは、歴代の天才を遡ってみれば明らかであり、スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Steve Jobs)、アインシュタイン(Albert Einstein)等が好例である。彼らはいわゆる「精神疾患」を患っていた。
天才肌の人は自分の得意とする分野にのみ長けている場合が多い。それ以外は人並み、いやそれ以下である。これは精神疾患のひとつである「自閉スペクトラム症」に通ずるものがある。
自閉スペクトラム症の患者は世間からバッシングを受けて生きていることがほとんどである。それは当然、周りとの調和・共感より自分の思考を優先してしまうからである。天才と呼ばれる人たちも、常識はずれな思考を持った人間だとして世間からの非難を受けてきた。(そもそも、「常識」とは何かという話にもなるが、今回はその哲学的問いは割愛したい。)つまり、一般人に天才が殺されたということである。
このように「天才」とは「一般人」を起点として相対的に持ち上げられる。周りとの調和を重んじる一般人からすれば、天才の発想を理解することができない。
したがって、天才と一般人は異なる平行線で生きているということであり、決してその線が交わることはない。
現代社会では、一般人が天才を殺している事例が多い。いや、天才までとは言えないまでも、「同調」を第一主義に掲げている日本社会では、多人数制がまかり通っており、少数派の意見は無と化す。
私はこの現状を憂いている。かくいう私も自閉スペクトラム症の患者で、居場所が欲しいという心の叫びを理解してほしいという理由もあるが、「変わり者」の人材(=人財)が変革を起こすこともありうるかもしれない。
天才と一般人の共存
今までのイノベーション論を辿ってみると、「イノベーション」とは新たな新製品の開発・新市場の開拓だけを意味するのではなく、それを社会に「普及させること」までも包含している。つまり、発明だけが一人歩きしても、それを普及させる要員がいなければイノベーションとは言えない。
そこで、天才と一般人が共存できる可能性について考えてみる。一見相反する両者であるが、「モノ・考えの普及」という観点で考えると、各々の役割を生かすことができる。
つまり、天才が発明したモノ・考えを「共感」を大切にしている一般人に根回ししてもらうということである。そうすれば、「発想→再現→普及」というサイクルが滞りなく実現される。
なーんて一通り論じてみたが、所詮は机上の空論である。馬の骨以下の若造の戯言だと流してほしい。